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機関誌『舞台芸術 15』に戯曲『雲。家。』掲載

今年2009年の春のはじめに東京で開催された舞台芸術の祭典、フェスティバル/トーキョー09で上演された作品のひとつである舞台『雲。家。』の戯曲全文が『舞台芸術 15』(2009年4月30日初版発行/A5版304頁 /企画・編集:京都造形芸術大学舞台芸術研究センター/発行:角川学芸出版/定価:税込2,100円)に掲載されています。
『舞台芸術』は同センターの機関誌です。
観劇時(レポ→こちら)にチラシ束のなかに入っていたファックス申込用紙で注文しておいたところ、発行日の4月30日に同センターからメール便で届きました。
『舞台芸術』最新号情報
角川学芸出版による情報


ただひとりの登場人物である女性(映像は除く)が、「わたしたち」という主語で始まる言葉を最初から最後までひたすら語り続ける『雲。家。』という作品は、私がこれまでに観たことのないとても斬新な作品でした。
内容はどうやらある民族の優位性と再起への期待をかたちを変えて繰り返し唱えているようで、それ自体は気持ちよく賛同できるものではなかったのですが、次々に繰り出される言葉の豊かさと表現される世界の広さに魅了され、なんとかして記憶にとどめたいという焦りをかんじながら観、聴きつづけました。
そして少ない動きのなかで声明のように一定の調子でそれらの言葉を発し続けるパフォーマー暁子猫(あきこ・ねこ)さんの抱き込むようなふくらみのある声の心地よさに酔い、幕が下りてからももっとこの声と言葉のなかに浸っていたい、とおもったほどでした。
今ようやく手に入った戯曲のテクスト(P32~P55)を改めて読むと、比較的平易な言葉が翻訳文とはおもえないほどなめらかに組み立てられた自然な文章でありながら、同時にとても特異な日本語群であることがわかります。
この難度の高い(日本語としてわかりづらい、ということではありません)戯曲を2時間弱のあいだ一語も崩れることなく安定して発話し続け、あるいはアカペラで歌い続けた暁子猫さんの声の力、登場時間の大部分を客席に正対して立っている姿が能役者のように決してぶれなかった(だけれどもいわゆる「静止芸」ではない)身体能力の高さに感嘆するほかありません。

いっぽう、この『雲。家。』という戯曲はそのほとんどが高名な詩人や哲学者の言葉をコラージュする技法で作られているという解説を観劇後に読んだときは、描かれていた世界の相の豊かさに納得するとともに、どの部分が誰の言葉でどの部分が作者エルフリーデ・イェリネク自身の言葉なのかぜひ知りたい、とおもいました。
その希望は、戯曲に続いて掲載された翻訳・林 立騎氏による「訳者解題」(P56~66)がかなえてくれました。
イェリネクは『雲。家。』の巻末でフリードリッヒ・ヘルダーリン、ヘーゲル、ハイデッガーなど戯曲のなかで使用したテクストの作者の名前を具体的に列記していますが、林氏は「少なくとも」としてそれぞれの作家ごとに実際の作品タイトルを明記していて、それはまるで名城の設計図をみるようです。
その元作品数は50にのぼりますが、現実にはさらに複雑な過程を経て使用されたものもあるので、おそらく60を超えるとの推量がなされています。

さらに、24の断片から成る『雲。家。』の三つ目の断片の冒頭部分を例にして、言葉に傍線を引き、その箇所が含まれた元作品の抜粋を掲載するという解剖的分析は、ぞくぞくする冒険のような楽しさをかんじさせてくれました。
それを読むと、イェリネクは元作品の言葉をそのまま引用するのではなく糸を織り込むように巧みに溶け込ませ、あちらこちらに分散させ、ときには改変したりもしているのがよくわかります。
いろいろな思考が次々に現れながらもひとりの人物が語る内容としてなんの継ぎ目も違和感も感じさせないイェリネク、そしてそれを流れるような日本語作品に織りなおした林氏の技の深さをおもいます。
翻訳作業のプロセスを公開した箇所を読むと、林氏は数行しか使われていない元作品をまず全訳してから改めてこの『雲。家。』に当てはめていく方法を採ったとのことで――ヘーゲルの『歴史哲学講義』などはさすがに当該箇所を含む数段落の翻訳だったそうですが――、作業の膨大さを想像すると呆然としてしまうとともに、この作品にめぐり会えた感慨をさらに深く抱くのです。

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